
01
会津若松城は、約1か月の籠城戦に耐えた
会津戦争で会津若松城は新政府軍の攻撃を受けました。城内に立てこもった側は、石垣や曲輪を使って砲撃と突入をしのぎます。 籠城とは、ただ門を閉じることではありません。兵を配置し、負傷者を抱え、砲弾と食料を配分しながら時間を味方につける作戦でした。

あいづわかまつじょう(つるがじょう)
会津若松城(鶴ヶ城)
Photo: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/ / https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aizuwakamatsu_Castle_ac_(1).jpg
福島県会津若松市にそびえる会津若松城、通称「鶴ヶ城」。赤瓦の天守が印象的なこの城は、戊辰戦争で新政府軍の猛攻に耐え抜いた「難攻不落の城」として知られています。しかし、その歴史には、戦国時代の天下人たちの思惑と、幕末に起きた悲劇が深く刻まれています。 会津若松城の基礎を築いたのは、戦国武将・蒲生氏郷でした。豊臣秀吉の命で会津に入った氏郷は、城と城下町を大規模に整備。その後、上杉景勝や加藤嘉明らを経て、徳川家と深い関係を持つ会津松平家の居城となりました。 幕末、会津藩は京都守護職として幕府を支えたことで、新政府軍と対立。1868年の会津戦争では約1か月にわたる籠城戦が続き、城下町は戦火に包まれました。白虎隊の悲劇も、この戦いのなかで生まれています。鶴ヶ城は落城することなく開城しましたが、その後、明治政府によって取り壊されました。

01
会津戦争で会津若松城は新政府軍の攻撃を受けました。城内に立てこもった側は、石垣や曲輪を使って砲撃と突入をしのぎます。 籠城とは、ただ門を閉じることではありません。兵を配置し、負傷者を抱え、砲弾と食料を配分しながら時間を味方につける作戦でした。

02
城は落ちなかった。でも、9月22日に開城したを、城は落ちなかった。でも開城した。会津若松城が見せる「勝敗」と「降伏」の違いの中の具体的な場面として見ます。 会津若松城は城壁を完全に破られて降伏したわけではありません。周囲の戦況が決定的に変わり、援軍の見込みや物資の状況も厳しくなったため、開城が選ばれました。 「落ちなかった」と「勝った」は同じではない。城を守り切る力が残っていても、戦争全体を続けられなければ、開城という判断が生まれます。

03
現在の会津若松城は再建された天守です。復元の過程では、幕末当時の姿を伝える資料をもとに外観が整えられ、後に赤瓦の屋根も復元されました。 建物は同じ場所に戻っても、そこに重なる時代は一つではありません。戦争で開城した城、再建された城、観光と記憶を受け継ぐ城。その重なりが鶴ヶ城の現在です。
SAME CATALOG