福岡城

ふくおかじょう

福岡城

Photo: Mukai / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

黒田官兵衛・長政親子が築城。双子都市を形成した巨大要塞と、徳川幕府を恐れて解体された「幻の天守」

福岡県福岡市の中央部に広大な敷地を有する福岡城は、関ヶ原の戦いで多大な功績を挙げた黒田長政が、筑前国五十二万石の本拠地として築造した城郭である。日本有数の商業都市である博多との共存を図った都市設計と、江戸幕府への政治的配慮によって意図的に隠滅されたと推測される「天守」の存在に関する歴史的ミステリーについて詳述する。

基本情報

名称
福岡城
別名
舞鶴城、石城
所在地
福岡県福岡市中央区城内
築城
1601年(慶長6年)〜1607年(慶長12年)
主な築城者
黒田長政、黒田孝高(官兵衛)
現在の城跡・建造物の状態
舞鶴公園、大濠公園として整備。多聞櫓や潮見櫓などが現存し、広大な石垣群が良好な状態で残る。
商業の「博多」と武士の「福岡」を分断・共存させた双子都市

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商業の「博多」と武士の「福岡」を分断・共存させた双子都市

筑前国を与えられた黒田長政と父・官兵衛は、古くからの国際貿易港であり日本有数の商業都市であった「博多」の西側に隣接する福崎の丘陵地を築城場所に選定した。 長政はこの新しい城下町を、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にちなんで「福岡」と命名した。 黒田氏の都市計画の秀逸な点は、商人が自治を行う既存の「博多」の街をあえて武士の居住区に組み込まず、那珂川を境界線として商人の町(博多)と武家町(福岡)を完全に分断させたことにある。 これにより、博多の持つ強力な経済力を損なうことなく保護・吸収しつつ、武士の規律を維持する「双子都市」の構造を確立させたのである。 この区分けは、現代においても福岡市の地名や文化において「福岡」と「博多」という二つの顔として明確に受け継がれている。

大濠の湿地帯をそのまま利用した鉄壁の西側防衛ライン

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大濠の湿地帯をそのまま利用した鉄壁の西側防衛ライン

福岡城の縄張り(設計)において、西側からの敵の侵攻を阻む最大の防御設備として機能したのが「大堀(現在の大濠公園)」である。 黒田氏は、元々博多湾に面した草香江(くさがえ)という広大な入り江であった地形を堰き止め、天然の巨大な水堀として城の防衛ラインに組み込んだ。この堀は幅が数百メートルに及ぶ巨大なものであり、大軍が西側から城へ接近することを物理的に不可能にする役割を果たしていた。 城内には四十七基もの多数の櫓(やぐら)が林立し、入り組んだ石垣の配置と相まって、総面積は江戸城や大坂城に次ぐ規模を誇った。 優れた軍事戦略家であった黒田親子の経験と知見が、地形の制約を逆手にとった鉄壁の城郭設計に結実している。

長年続く「幻の天守閣」論争と解体を裏付ける新史料の発見

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長年続く「幻の天守閣」論争と解体を裏付ける新史料の発見

広大で強固な石垣を持つ福岡城であるが、江戸時代に描かれた絵図などには天守が存在する姿が一切描かれておらず、「福岡城には最初から天守は建てられなかった」というのが長年の定説であった。 しかし近年、細川家の家臣が記した書状の中に「黒田長政が幕府の猜疑心を避けるため、完成していた福岡城の天守を自ら取り壊した」という内容の記述が発見された。 外様大名の中でも屈指の軍事力と財力を持つ黒田家が、徳川家康から謀反の疑いをかけられることを極度に恐れ、忠誠の証としてあえて自らの権威の象徴(天守)を解体したという推測である。 天守台には現在も巨大な礎石を据えるための精巧な細工が残されており、「一時的にせよ天守は存在した」とする学説が有力になりつつある。 戦国を生き抜いた大名が、泰平の世を生き延びるために下した苦渋の決断を物語る歴史的ミステリーである。

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