伏見城

ふしみじょう

伏見城

Photo: Thomas vanierschot / Wikimedia Commons / Public domain

伏見城|豊臣秀吉が晩年過ごした城。三度の築城と崩壊、そして生々しい「血天井」の傷痕

京都の南部に位置する伏見城は、豊臣秀吉が自身の隠居所として築きながらも、実質的な豊臣政権の政治・外交の最終拠点となった巨大城郭である。自然災害による倒壊と再建、そして天下分け目の戦いに直結する凄惨な籠城戦の舞台となった、戦国末期の激動を体現する城の軌跡を記す。

基本情報

名称
伏見城
別名
桃山城、指月伏見城、木幡山伏見城
所在地
京都府京都市伏見区
築城
1592年(文禄元年・指月)、1597年(慶長2年・木幡山)
主な築城者
豊臣秀吉、徳川家康
現在の城跡・建造物の状態
模擬天守があるが耐震問題で立ち入り禁止。周辺は桃山陵墓地や公園となっている。
短期間に三度も建て直された特異な城郭史

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短期間に三度も建て直された特異な城郭史

伏見城は、その短い歴史の中で場所を変えて三度も築城と破却を繰り返した極めて特異な城である。最初は秀吉の隠居所として宇治川沿いの指月(しげつ)に築かれたが、大地震で倒壊。直後に直線距離で約1キロ離れた高台である木幡山(こはたやま)に巨大な城が再建され、ここで秀吉は生涯を終えた。その後、関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失したため、今度は覇権を握った徳川家康によって再建され、将軍宣下の儀式などが行われる徳川政権の拠点として機能した。天下人の交代とともにその姿を変え続けた、政治的シンボルとしての役割が色濃い城郭である。

慶長伏見地震による指月伏見城の完全倒壊

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慶長伏見地震による指月伏見城の完全倒壊

1596年(文禄5年/慶長元年)、京都周辺をマグニチュード7を超える直下型地震「慶長伏見地震」が襲った。この時、完成間近であった最初の指月伏見城は凄まじい揺れに見舞われ、天守を含む城内の建物の大半が完全に倒壊した。城内で就寝中であった秀吉は、家臣に背負われて命からがら城からの脱出に成功したが、城内にいた女中や家臣ら数百名が圧死するという大惨事となった。当時のスペイン宣教師の記録にも、地割れから泥水が噴き出す液状化現象や建物の損壊の様子が記されており、秀吉の巨大事業が自然の猛威によって一瞬で無に帰した事象である。

関ヶ原の前哨戦と寺院に残る凄惨な「血天井」

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関ヶ原の前哨戦と寺院に残る凄惨な「血天井」

秀吉の死後、徳川家康が留守にしていた伏見城(木幡山)は、石田三成ら西軍の標的となる。1600年、城の留守居役を任されていた家康の忠臣・鳥居元忠らは、約4万の西軍を相手にわずか2千の兵で壮絶な籠城戦を展開した。半月に及ぶ抗戦の末に城は落ち、元忠をはじめとする数百名の将兵は城内で自刃して果てた。戦後、彼らの血が大量に染み込んだ伏見城の床板は、その忠節を弔うために京都の養源院や宝泉院など複数の寺院に運ばれ、天井板として再利用された。これが現在も残る「血天井」であり、手形や顔の輪郭の血痕が生々しく確認できる。

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