岩出山城

いわでやまじょう

岩出山城

Photo: Tak1701d / Wikimedia Commons / Public domain

伊達政宗が仙台へ移るまでの十二年間、本拠地とした岩出山城。徳川家康による事前の改修工事や、大軍を維持するには手狭であった地形的制約、そして仙台開府に向けた過渡期の軍事拠点としての役割を記す。

宮城県大崎市に位置する岩出山城は、伊達政宗が仙台城を築くまでの十二年間にわたり本拠地とした城郭である。豊臣秀吉の奥州仕置によって領地を移動させられた政宗に対し、徳川家康が城の改修を指示したという特異な経緯を持つ。戦国末期から江戸時代初期にかけての、伊達家における戦略的変遷の過程を記録する。

基本情報

名称
岩出山城
別名
岩手沢城(旧名)
所在地
宮城県大崎市岩出山
築城
室町時代(氏家氏による)、のち1591年(天正19年)に徳川家康が改修
主な築城者
氏家氏、徳川家康、伊達政宗
現在の城跡・建造物の状態
城山公園として整備。本丸跡などに土塁や空堀の遺構が現存。
徳川家康が四十日間にわたり滞在して主導した改修工事

01

徳川家康が四十日間にわたり滞在して主導した改修工事

天正十八年(一五九〇年)の葛西大崎一揆の後、豊臣秀吉は伊達政宗に対して先祖代々の領地であった米沢などを没収し、新たに葛西・大崎の旧領への転封を命じた。 この際、秀吉から政宗への城の引き渡しと新たな居城の整備を命じられたのが徳川家康である。家康は自ら軍勢を率いて現地に入り、およそ四十日間にわたって滞在しながら、既存の城郭に大規模な改修を施した。 徳川家康は本丸の拡張や強固な土塁、深い空堀の造成を直接指揮し、伊達家の新たな本拠地にふさわしい軍事要塞へと作り替えた。 これは、奥州の有力大名である政宗に対する豊臣政権(および家康)の監視の意図が含まれると同時に、両者の政治的関係性が構築される重要な契機ともなった。

地名変更の経緯と「岩出山」という名称の定着

02

地名変更の経緯と「岩出山」という名称の定着

伊達政宗が入城する以前、この地域および城の名称は「岩手沢(いわてざわ)」と呼ばれていた。 伊達政宗は居城を移すにあたり、京都の岩清水八幡宮から分霊を勧請して城内に祀り、地名を「岩出山」へと改称した。 この名称変更には、新しい統治拠点としての縁起を担ぐ意味合いや、伊達家による新たな支配体制を内外に強く印象付ける政治的意図があったとされている。 伊達政宗はこの岩出山城を拠点として十二年間を過ごし、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への出陣や、関ヶ原の戦いに至るまでの豊臣政権下での複雑な政治的立ち回りを展開した。 岩出山城は、伊達家が戦国大名から近世大名へと脱皮を図るための、極めて重要な雌伏の期間を支えた過渡期の軍事拠点であった。

大藩の統治機構を収容しきれなかった地形的限界と仙台への移転

03

大藩の統治機構を収容しきれなかった地形的限界と仙台への移転

岩出山城は防衛面においては優れた山城であったが、伊達家が抱える六十万石規模の巨大な家臣団と統治機構を収容するには、地形的にあまりにも手狭であった。 さらに内陸部に位置しているため、領国全体の経済を活性化させるための海運物流のネットワークを構築することが困難であった。関ヶ原の戦いが終結し、徳川家康による天下の覇権が確実なものとなると、伊達政宗はただちに徳川家康に対して本拠地移転の許可を願い出る。 物流の拠点となる海に近く、広大な城下町を形成できる平野部を備えた「千代(後の仙台)」への移転計画である。 徳川家康からの許可を得た伊達政宗は、慶長六年(一六〇一年)に岩出山を離れ、東北最大規模となる仙台城の築城へと着手することになる。

SAME CATALOG

同じ図鑑のほかの記事