岩村城

岩村城

Photo: takami torao ( Koiroha ( talk ) 00:34, 28 June 2009 (UTC)) / Wikimedia Commons / Public domain

岩村城

岐阜県恵那市に位置する岩村城は、大和の高取城、備中の松山城と並んで「日本三大山城」に数えられる中世山城である。標高717mの山頂に幾重もの石垣を巡らせた堅牢な防衛構造と、織田信長の叔母である「おつやの方」が城主として采配を振るった特異な統治の歴史、そして武田氏と織田氏の国境紛争において彼女が辿った悲惨な結末について記録する。

基本情報

名称
岩村城
別名
霧ヶ城(きりがじょう)
所在地
岐阜県恵那市岩村町城山
築城
1185年(文治元年)に加藤景廉が築城と伝わる、戦国期に大規模改修
主な築城者
加藤氏、遠山氏
現在の城跡・建造物の状態
国の史跡。建造物は現存しないが、本丸の六段壁(ろくだんへき)をはじめとする強固な石垣群が山中に極めて良好な状態で残存する。
標高七百十七メートルの山頂に築かれた「六段壁」と霧の要塞

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標高七百十七メートルの山頂に築かれた「六段壁」と霧の要塞

岩村城の最大の特徴は、江戸時代に存続した諸大名の居城の中で最も高い標高(七百十七メートル)に本丸が位置している点にある。 地形の高低差を利用した単なる山城にとどまらず、江戸時代を通じて大規模な石垣の改修が行われた。 特に本丸の北東斜面を防御するために築かれた「六段壁(ろくだんへき)」は、崩落を防ぐために石垣を階段状に六段に分けて積み上げたものであり、岩村城の堅牢さを視覚的に証明する遺構となっている。 また、この地域は地形的・気象的な条件から濃霧が発生しやすく、城の姿が霧に隠されて敵の視界を奪うことから「霧ヶ城」という別名で呼ばれた。 自然現象すらも防衛システムの一部として機能する、美濃国東部における最高レベルの軍事拠点であった。

織田信長の叔母「おつやの方」による実質的な城郭統治

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織田信長の叔母「おつやの方」による実質的な城郭統治

戦国時代、岩村城は美濃と信濃の国境を扼する重要拠点であり、織田氏と武田氏の勢力争いの最前線であった。 当時の城主・遠山景任が病没すると、その正室であった織田信長の叔母「おつやの方」が、幼い養子(信長の五男・御坊丸)に代わって実質的な城主として岩村城の指揮を執った。 女性が前線基地の城主として軍事・政務を統括した事例は、戦国期においても極めて稀である。 しかし元亀三年(一五七二年)、武田信玄の命を受けた武田軍の猛将・秋山虎繁(信友)が岩村城を包囲する。織田軍からの援軍が絶望的な状況下において、おつやの方は領民と城兵の命を保証することを条件に、自らが秋山虎繁と婚姻を結んで武田方に降伏・開城するという苦渋の決断を下した。 これにより岩村城は無血で武田軍の手に渡り、御坊丸は人質として甲斐へ送られることとなった。

織田軍による奪還と、長良川における凄惨な「逆さ磔」

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織田軍による奪還と、長良川における凄惨な「逆さ磔」

おつやの方の降伏と敵将への寝返りは、織田信長にとって身内からの重大な裏切り行為と受け取られた。天正三年(一五七五年)の長篠の戦いにおいて武田軍が壊滅的な打撃を受けた後、信長の嫡男・織田信忠が率いる大軍が岩村城を包囲する。 約五ヶ月に及ぶ過酷な兵糧攻めの末、餓死者が続出する城内を見た秋山虎繁は、自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願して降伏を申し出た。 しかし、織田側はこの降伏協定を一方的に破棄し、城から出てきた秋山軍に襲い掛かって多数の将兵を惨殺した。捕縛された秋山虎繁とおつやの方は岐阜へと連行され、長良川の河原において「逆さ磔(さかさはりつけ)」という極めて残酷な刑罰によって公開処刑された。 国境の城を死守するために下した女性当主の政治的判断は、覇権を拡大する信長の冷酷な報復によって凄惨な結末を迎えることとなったのである。

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