唐沢山城

からさわやまじょう

唐沢山城

Officeshema / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

唐沢山城|謙信の猛攻を退けた絶険の山城と、江戸を見下ろし忌避された高石垣

栃木県佐野市に所在する唐沢山城(唐沢城)は、平安時代の武将・藤原秀郷によって築かれたという伝承を持ち、戦国時代には佐野氏の本拠地として関東平野の北端を扼する最重要拠点として機能した。上杉謙信の度重なる包囲戦を耐え抜いた堅牢な地形的優位性と、関東の山城としては特異な西国風の高石垣が築かれた建築的背景、そして江戸時代初期における突然の廃城措置とそれにまつわる政治的伝承について記述する。

基本情報

名称
唐沢山城
読み
からさわやまじょう
別名
唐沢山城跡
所在地
栃木県佐野市富士町
築城時期
鎌倉時代以降(佐野氏が築城)
築城者
佐野氏
現在の城郭
本丸を中心とする石垣・曲輪などの城跡(唐沢山神社所在)
文化財・指定
史跡(国史跡指定に向けた調査中)
杉謙信による十度の包囲網と、絶険の地形を利用した防衛戦

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杉謙信による十度の包囲網と、絶険の地形を利用した防衛戦

唐沢山城は、関東平野の北縁に位置する標高二百四十二メートルの唐沢山山頂を中心に築かれた広大な山城である。 南には関東平野を一望し、北には足尾山地を背負うこの城郭は、軍事的な見張り台として極めて高い機能を有していた。 戦国時代、城主であった佐野昌綱の時代には、越後の上杉謙信と相模の北条氏康という二大勢力の国境紛争の最前線となり、双方から激しい攻撃の標的とされた。特に上杉謙信は、関東管領としての威信をかけて唐沢山城を十度(一説にはそれ以上)にわたって大軍で包囲したと記録されている。 しかし、周囲を急峻な崖と複雑な谷に守られた唐沢山城の物理的防衛力は極めて高く、上杉軍は力攻めによる完全な陥落を果たすことができなかった。 佐野氏は、城の堅牢さを背景に有利な条件での和睦(一時的な降伏)と離反を繰り返すという高度な外交・軍事戦術を展開し、強大な周辺勢力の間に挟まれながらも一族の独立と存続を図り続けたのである。

関東の山城に出現した織豊系の「高石垣」と近世城郭への改修Created by are-iina

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関東の山城に出現した織豊系の「高石垣」と近世城郭への改修

豊臣秀吉による小田原征伐を経て、後北条氏が滅亡した後の天正十八年(一五九〇年)、佐野氏は豊臣政権下において所領の安堵を受けた。 この時期、豊臣秀吉の家臣である富田一白の次男(後の佐野信吉)が佐野家へ養子として送り込まれ、当主となった。 この佐野信吉の時代に、唐沢山城は中世の土の城から、石垣を多用する近世城郭(織豊系城郭)へと大規模な改修工事が行われた。関東地方の山城は、北条氏の拠点であった八王子城や山中城に見られるように土塁と空堀(障子堀など)で防御を固めるのが一般的であり、大規模な石垣を築く文化は乏しかった。しかし、唐沢山城の本丸や二の丸の周囲には、西国の築城技術を取り入れた「野面積み」による高さ八メートル以上の高石垣が全長にわたって築造された。 また、敵の直進を物理的に阻む「喰違い虎口(くいちがいこぐち)」などの高度な城門構造も採用され、関東の地に西国の最新鋭の軍事技術が移植された歴史的過程を証明する貴重な遺構となっている。

江戸の火事を見下ろした伝説と、徳川幕府による山城の廃城

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江戸の火事を見下ろした伝説と、徳川幕府による山城の廃城

堅固な高石垣を備えた近世城郭として完成した唐沢山城であったが、江戸時代に入って間もない慶長七年(一六〇二年)、徳川家康の命により突如として廃城となり、佐野氏は山麓の平野部に新たに築いた佐野城(春日岡城)へと居城を移すこととなった。 この廃城の理由について、広く知られる歴史的伝承が存在する。 ある年の正月、江戸の町で大規模な火災が発生した際、唐沢山城の山頂からその炎を視認した佐野信吉が、直ちに兵を率いて江戸の消火・警備に駆けつけた。 しかし、家康はこれを賞賛するどころか、「将軍家の足元である江戸の街を、はるか遠方の山頂から見下ろすことができる城の存在は不届きであり、幕府の防衛上も看過できない」として激怒し、直ちに山城からの退去と平城への移転を命じたというものである。 歴史学的には、幕府の権力基盤が安定していく中で、時代遅れとなった実戦的な巨大山城を破却し、平時の行政統治に適した平城への移行を強制した幕府の軍縮政策の一環と解釈されている。 その後、明治十六年(一八八三年)に旧藩士有志によって本丸跡に唐沢山神社が創建され、城跡は神域として保護されることとなった。

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