甲府城

こうふじょう

甲府城

Photo: UNKNOWN / Wikimedia Commons / Public domain

甲府城|武田の記憶を消し去るために築かれた、豊臣政権の巨大総石垣要塞

山梨県甲府市に位置する甲府城は、甲斐国といえば武田信玄の「躑躅ヶ崎館」というイメージを覆し、豊臣政権下において新たに築造された近世城郭である。旧武田領の完全な掌握と、関東の徳川家康を牽制するための強固な軍事拠点として設計された。西国大名の技術が結集された野面積み石垣の構造と、江戸時代における徳川幕府の西の防衛拠点としての役割を記録する。

基本情報

名称
甲府城
別名
舞鶴城
所在地
山梨県甲府市丸の内
築城
1583年(天正11年)頃から計画、1590年代に本格築城
主な築城者
浅野長政、浅野幸長
現在の城跡・建造物の状態
舞鶴城公園・甲府市歴史公園として整備。巨大な野面積みの石垣が現存し、稲荷櫓や鉄門などが復元されている。
武田信玄の痕跡を払拭するための新城郭建設計画

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武田信玄の痕跡を払拭するための新城郭建設計画

甲斐国の支配拠点といえば、武田信玄から勝頼の時代まで使用された躑躅ヶ崎館(現・武田神社)が広く知られている。しかし、天正十年(一五八二年)に武田氏が滅亡した後、甲斐を支配した豊臣秀吉は、領民に根強く残る「武田の威光」を物理的・精神的に払拭する必要があった。そのため秀吉は、古い館を放棄し、甲府盆地の中心にある一条小山という独立丘陵に、全く新しい巨大な城郭を築くことを命じた。これが甲府城である。この城は単なる甲斐国の統治拠点というだけでなく、小田原征伐後に関東へ移封された徳川家康を背後から監視し、有事の際には家康の西進を食い止めるための「豊臣政権の最重要前線基地」としての役割を担わされていた。

浅野長政・幸長親子が築き上げた威圧的な「野面積み」石垣Photo: そらみみ (Soramimi) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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浅野長政・幸長親子が築き上げた威圧的な「野面積み」石垣

甲府城の築城を指揮したのは、豊臣秀吉の五奉行筆頭である浅野長政と、その息子の浅野幸長である。彼らは西国で培われた最新鋭の築城技術を甲州へ持ち込み、山の地形に沿って自然石を高く積み上げる「野面積み」の巨大な石垣を縦横に巡らせた。現在も甲府駅のすぐ南側にそびえ立つ甲府城の石垣は、荒々しく不揃いな石が複雑に噛み合わされており、極めて強固で威圧的な景観を形成している。堀や土塁といった中世的な防御施設に慣れ親しんでいた甲斐の在地領主や民衆にとって、天高くそびえる石垣と白壁の櫓群は、豊臣政権の圧倒的な権力と軍事力を視覚的に見せつける絶大な効果を発揮した。

将軍家の親族のみが治める「江戸の西の防壁」への変質

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将軍家の親族のみが治める「江戸の西の防壁」への変質

関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が開かれると、かつて家康を監視するために築かれた甲府城は、今度は逆に「徳川幕府の西の防壁」という極めて重要な役割を担うこととなる。江戸城へと至る甲州街道を扼する位置にあるため、幕府は甲府を特別な直轄領(天領)とし、城主には将軍の親族(親藩)である徳川綱重や、将軍・綱吉の側用人として絶大な権力を握った柳沢吉保など、幕府の最高首脳陣のみを配置した。特に柳沢吉保の時代には、城郭の改修や城下町の整備が大々的に行われ、甲府は江戸に次ぐ文化的繁栄を謳歌した。豊臣政権の軍事要塞として産声を上げた城は、時代が下るにつれて徳川政権の絶対的な安全保障の要石として、その存在意義を百八十度転換させたのである。

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