{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}久保田城

くぼたじょう

久保田城

Photo: Suicasmo / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

久保田城|佐竹義宣が秋田に築いた天守も石垣も持たない城。戊辰戦争での軍事拠点

秋田県秋田市に位置する久保田城は、関ヶ原の戦いの後に常陸国から秋田へと減転封された佐竹義宣によって築かれた城郭である。石高に見合わぬ大規模な石垣や天守をあえて造営しなかった政治的背景と、幕末の戊辰戦争において新政府軍の拠点として苛烈な攻防戦の舞台となった軍事拠点としての歴史を記録する。

基本情報

名称
久保田城
別名
矢留城(やどめじょう)、葛根城(かっこんじょう)
所在地
秋田県秋田市千秋公園
築城
1603年(慶長8年)〜1604年(慶長9年)
主な築城者
佐竹義宣
現在の城跡・建造物の状態
千秋公園として整備。本丸御出書院(御物頭御番所)が現存し、表門と御隅櫓が復元されている。
幕府への配慮と財政難による「石垣のない城」の築造Photo: くろふね / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

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幕府への配慮と財政難による「石垣のない城」の築造

慶長七年(1602年)、関ヶ原の戦いで西軍寄りの曖昧な態度をとった佐竹義宣は、徳川家康の命により先祖代々の地である常陸国五十四万石から、秋田二十万石へと大幅な減転封を命じられた。 義宣は神明山という丘陵に新たな居城「久保田城」の建設を開始したが、この城には大名の権威の象徴である「天守」が存在せず、さらには城郭の基本とも言える「石垣」すら本丸の一部を除いてほとんど築かれなかった。 これには二つの重大な理由がある。第一に、江戸幕府に対して恭順の意を示し、無用な軍事力を持っているという猜疑心を持たれないようにするための極端な政治的配慮。第二に、領地が半分以下に減ったにもかかわらず、旧領から膨大な家臣団を引き連れてきたため、石垣を積むような大規模な土木工事を行う財政的余裕が全く無かったことである。 その代わり、山を削った土塁と広大な水堀を複雑に組み合わせることで、実戦に耐えうる防衛機能を確保した。

戊辰戦争における奥羽越列藩同盟からの離脱と激戦

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戊辰戦争における奥羽越列藩同盟からの離脱と激戦

江戸時代を通じて秋田藩政の中心であった久保田城は、幕末の慶応四年(1868年)に勃発した戊辰戦争において、東北地方における最大の激戦地のひとつとなる。 当初、秋田藩(久保田藩)は東北の諸藩が結成した奥羽越列藩同盟に参加していたが、尊皇攘夷の機運と新政府軍の圧力を受け、密かに同盟を離脱して新政府側に寝返る決断を下す。 これに激怒した庄内藩や盛岡藩などの同盟軍は、裏切り者となった秋田藩を討つべく久保田城下に向けて猛烈な勢いで進軍を開始した。 秋田藩は新政府軍の援軍とともに激しい防衛戦を展開し、城下の一部が戦火に焼かれるなど久保田城は陥落の危機に瀕したが、佐賀藩などが持ち込んだ最新鋭のアームストロング砲やスナイドル銃による圧倒的な火力支援により、辛くも城の防衛に成功した。 久保田城は、新政府軍が東北地方を平定するための極めて重要な戦略拠点として機能したのである。

明治の火災による建造物の焼失と千秋公園としての再生Photo: 掬茶 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

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明治の火災による建造物の焼失と千秋公園としての再生

戊辰戦争を耐え抜いた久保田城であったが、皮肉にも近代に入ってからその建造物の大半を失うこととなる。明治十三年(1880年)、城内で発生した大規模な火災により、本丸に建っていた壮麗な御殿や多くの櫓、城門群が全焼してしまった。 唯一焼失を免れたのが、現在も公園内にひっそりと残る「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」と呼ばれる警備用の建物のみである。 その後、荒廃した城跡を整備するため、明治二十九年(1896年)に近代造園の祖と呼ばれる長岡安平の設計によって「千秋公園」として再生が図られた。土塁と堀の自然地形を活かし、桜やツツジが植栽された公園は市民の憩いの場となり、近年では平成元年に御隅櫓が、平成十三年には表門が木造で復元されるなど、失われた城郭の景観を取り戻す事業が進められている。

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