松代城

まつしろじょう

松代城

Photo: baku13 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.1 jp

松代城

長野県長野市に位置する松代城は、戦国時代に武田信玄が上杉謙信との決戦に備えて築城した「海津城」を起源とする平城である。武田氏滅亡後は織田、上杉、豊臣の支配を経て、江戸時代には真田信之が入封し、以後幕末まで真田家の居城として機能した。千曲川の地形を軍事利用した縄張りと、江戸期における水害との戦い、および真田家による統治の記録を記載する。

基本情報

名称
松代城
別名
海津城(旧名)、貝津城
所在地
長野県長野市松代町松代
築城
1560年(永禄3年)頃に武田信玄が海津城として築城
主な築城者
山本勘助(伝承)、武田信玄、真田信之
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。太鼓門、太鼓門前橋、北不明門などが発掘調査に基づき木造復元され、石垣や土塁が現存する。
川中島の戦いを見据えた山本勘助による縄張りと「海津城」の築造

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川中島の戦いを見据えた山本勘助による縄張りと「海津城」の築造

永禄三年(一五六〇年)頃、信濃国への侵攻を進める武田信玄は、越後国の上杉謙信の南下を食い止めるための最重要防衛ラインとして、千曲川のほとりに「海津城」を築城した。 甲陽軍鑑などの軍記物によれば、築城の縄張り(設計)を担当したのは武田家の伝説的な軍師・山本勘助であるとされる。城は千曲川の旧河道に囲まれた自然堤防の上に築かれ、背後を流れる千曲川の急流を天然の巨大な巨大な外堀として利用する極めて実戦的な構造(後堅固の城)であった。 永禄四年(一五六一年)の第四次川中島の戦いにおいて、海津城は武田軍の重要な補給・前線基地として機能し、妻女山に陣を敷いた上杉軍と対峙した。 信玄の弟である武田信繁や山本勘助が戦死する激戦の舞台裏で、武田軍の戦略的基盤を支え続けた軍事要塞である。

千曲川の氾濫による度重なる水害「戌の満水」の悲劇

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千曲川の氾濫による度重なる水害「戌の満水」の悲劇

千曲川を背後に抱える松代城の立地は、軍事的な防衛面においては極めて優秀であったが、平時における城郭の維持という観点では致命的な弱点を抱えていた。 大雨や雪解けの季節になるたびに千曲川が氾濫し、城郭や城下町が水没する甚大な水害に見舞われたのである。特に江戸時代の寛保二年(一七四二年)に発生した大洪水は「戌の満水(いぬのまんすい)」と呼ばれ、千曲川流域に壊滅的な被害をもたらした。 この際、松代城下でも濁流が渦巻き、数千人規模の犠牲者が出たと記録されている。真田家は藩政を通じて千曲川の治水工事に莫大な資金と労力を投入し続け、川の流れを城から遠ざけるための大規模な瀬替え(流路変更)工事などを実施したが、自然の猛威を完全に抑え込むことは難しく、城主たちは水害の恐怖と恒常的な財政難に悩まされ続けた。

真田信之の入封と、十万石の大名として存続した真田家の藩政

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真田信之の入封と、十万石の大名として存続した真田家の藩政

元和八年(一六二二年)、真田昌幸の長男である真田信之が上田城から十三万石(後に十万石)で松代城へと移封された。 信之の弟・幸村(信繁)は大坂の陣で徳川家に牙を剥いて戦死していたが、信之は徳川家康の重臣・本多忠勝の娘(小松姫)を正室に迎えて幕府への絶対的な忠誠を誓い、真田家の存続に成功したのである。 信之以降、松代藩は幕末に至るまでの二百五十年間、一度も国替えされることなく真田家によって統治された。幕末期には第八代藩主・真田幸貫が老中に就任して幕政に関与し、また佐久間象山などの優秀な思想家・蘭学者を輩出して近代日本の夜明けに思想的な影響を与えた。 戦国時代における知将・真田昌幸の血脈は、この松代の地で堅実な領国経営を行う近世大名へと変貌を遂げ、明治維新まで命脈を保つこととなった。

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