{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}七尾城

ななおじょう

七尾城

Photo: tom-spring / Wikimedia Commons / Public domain

七尾城|七つの尾根を要塞化した巨大山城と、上杉謙信の包囲網

石川県七尾市に所在する七尾城は、能登国を支配した守護大名・畠山氏が、標高三百メートル級の山塊全体を要塞化して築き上げた巨大な山城である。日本五大山城の一つに数えられるその圧倒的な規模と、上杉謙信による包囲戦における城内の内紛と疫病の蔓延、そして落城の夜に詠まれた漢詩の存在について歴史的観点から検証する。

基本情報

名称
七尾城
別名
松尾城
所在地
石川県七尾市古城町
築城
15世紀前期〜中頃(畠山満慶の頃から徐々に拡張)
主な築城者
能登畠山氏
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。建造物は存在しないが、本丸の壮大な野面積み石垣や土塁、曲輪の遺構が極めて良好な状態で山中に現存する。
七つの尾根を要塞化した「日本五大山城」の規模と石垣

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七つの尾根を要塞化した「日本五大山城」の規模と石垣

七尾城は、能登半島の付け根に位置する石動山系の北端、標高約三百メートルの松尾山を中心に築かれている。 名称の由来は、松尾、菊尾、竹尾、梅尾など「七つの尾根」に沿って無数の曲輪(平坦な陣地)が配置されていることに起因する。 城郭の総面積は約二百ヘクタールにも及び、南北約二.五キロメートルにわたって防衛設備が連なるその規模は、春日山城や月山富田城などと並んで「日本五大山城」と称される。 戦国時代後期に畠山義総の時代にかけて大規模な改修が行われ、山の急斜面に自然石を高く積み上げた巨大な野面積みの石垣が幾重にも巡らされた。 五層に連なる石垣は現在でも苔生した状態で山中に残存しており、長宗我部氏や北条氏の山城とは異なる、日本海側の強大な守護大名の軍事力を誇示する威圧的な景観を保っている。

上杉謙信の兵糧攻めと疫病の蔓延による凄惨な落城

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上杉謙信の兵糧攻めと疫病の蔓延による凄惨な落城

天正四年(一五七六年)、能登の制圧を目指す上杉謙信の二万の大軍が七尾城を包囲した。 七尾城は険阻な地形と強力な防衛設備を備えており、上杉軍の猛攻を一年近くにわたって完全に跳ね返した。しかし、城内の最大の敵は外部からの攻撃ではなかった。 長期間の籠城による衛生状態の極度な悪化に伴い、城内に赤痢などの深刻な疫病(伝染病)が蔓延したのである。 当主である幼君・畠山春王丸までもが疫病に罹患して命を落とし、城内は絶望的な状況に陥った。さらに、親上杉派の重臣・遊佐続光らが織田信長への救援を求める親織田派の長続連の一族を暗殺し、上杉軍に内通して城門を開き降伏した。 無敵を誇った巨大要塞は、武力によって突破されたのではなく、伝染病の恐怖と内部崩壊という陰惨な形であっけなく陥落の時を迎えることとなったのである。

謙信の漢詩「十三夜」と、前田利家による廃城の決断

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謙信の漢詩「十三夜」と、前田利家による廃城の決断

七尾城を陥落させた直後の天正五年(一五七七年)九月十三日の夜、上杉謙信は本丸で名月の宴を催し、有名な漢詩『九月十三夜陣中作』を詠んだと伝えられている。 「霜は軍営に満ちて 秋気清し 越山併せ得たり 能州の景」で始まるこの詩は、長年の悲願であった能登平定を達成した謙信の武将としての感慨と、戦場の静寂を見事に表現した傑作として知られる。 しかし、謙信の死後に織田軍が能登を制圧し、前田利家が七尾城主として入城すると、この城の運命は尽きる。 利家は山頂の七尾城が領国経営や海運物流において不便極まりない巨大すぎる軍事施設であると判断し、港に近い平野部に新たに小丸山城を築いて本拠地を移転させた。 これにより、約百五十年続いた畠山氏の壮大な山城は完全に放棄され、そのまま山林へと還っていくこととなった。

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