二本松城

にほんまつじょう

二本松城

Photo: baku13 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.1 jp

二本松城|少年たちの命が散った戊辰の悲劇と、丹羽氏が築いた総石垣の要塞

福島県二本松市に建つ二本松城は、畠山氏による築城から始まり、伊達氏、蒲生氏、加藤氏を経て、江戸時代には丹羽氏の居城として機能した。幾多の領主によって拡張された強固な石垣の遺構と、戊辰戦争において十三歳前後の少年たちが出陣し、城郭の防衛において散華した「二本松少年隊」の悲痛な歴史について詳述する。

基本情報

名称
二本松城
別名
霞ヶ城(かすみがじょう)、白旗城
所在地
福島県二本松市郭内
築城
1414年(応永21年)頃から畠山氏が居館を構え、近世に大改修
主な築城者
畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重
現在の城跡・建造物の状態
霞ヶ城公園として整備。本丸の石垣が修復され、三の丸に箕輪門と附櫓が木造復元されている。
歴代領主による改修と丹羽氏による近世城郭の完成

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歴代領主による改修と丹羽氏による近世城郭の完成

二本松の地は奥州街道と会津街道が交差する交通の要衝であり、戦国時代から重要な軍事拠点であった。 畠山氏が室町時代に居館を構えたことに始まり、伊達政宗による制圧を経て、豊臣政権下では蒲生氏郷の支城として近世城郭への改修が始まった。 その後、加藤明利によって本丸の石垣が築かれたが、城郭の最終的な完成を見たのは寛永二十年(一六四三年)に入封した丹羽光重(織田信長の重臣・丹羽長秀の孫)の時代である。 丹羽氏は十万石の大名にふさわしい城郭とするため、急峻な白旗ヶ峰の地形を利用して山頂の本丸から山麓の三の丸に至るまで大規模な総石垣を築き上げ、城下町の整備も並行して進めた。現在見られる見事な野面積みや谷積みによる石垣の多くは、丹羽氏の時代に最終的な形として完成したものである。

戊辰戦争における「二本松少年隊」の凄絶な防衛戦と最期Photo: baku13 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.1 jp

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戊辰戦争における「二本松少年隊」の凄絶な防衛戦と最期

慶応四年(1868年)、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に加わった二本松藩は、新政府軍の圧倒的な兵力の前に未曾有の危機に直面する。 藩の主力部隊を白河口などの県境の防衛に出払っていたため、城下の防衛兵力が極端に不足していた。 そのため、本来は出陣の規定年齢に達していない13歳から17歳の少年たちからなる「二本松少年隊」が急遽編成され、実戦に投入されることとなった。七月二十九日、新政府軍の大軍が城下に突入すると、大壇口(おおだんぐち)などの防衛線で少年たちは旧式の銃と刀を手に凄絶な戦闘を繰り広げた。 木村銃太郎をはじめとする隊長たちが次々と戦死する中、少年たちも腹を撃たれて自刃したり、敵陣に斬り込んで命を落とした。 二本松城も同日に激しい砲火を浴びて炎上し、落城。若き命が国家の動乱の中で無惨に散ったこの事件は、会津の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として深く歴史に刻まれている。

忠実に木造復元された箕輪門と戒石銘の教えPhoto: Σ64 / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

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忠実に木造復元された箕輪門と戒石銘の教え

戊辰戦争で焼け落ち、廃城令によって建物を失った二本松城跡であるが、昭和五十七年(一九八二年)に三の丸の正門にあたる「箕輪門(みのわもん)」と附櫓が木造で忠実に復元された。 この門の名称は、丹羽氏の家臣が箕輪村(現在の二本松市内)の山中から樹齢数百年の巨大な樫の木を切り出して門の扉の材料としたことに由来する。 また、城の敷地内には「戒石銘(かいせきめい)」と呼ばれる巨大な自然石が現存している。 これは五代藩主・丹羽高寛が、藩の役人たちの不正を戒めるために石に刻ませたもので、「爾の俸爾の禄は 民の膏民の脂なり(お前たちの給料は人民の血と汗の結晶である)」という厳格な公務員倫理が記されている。武士の権力を誇示する城内に、統治者としての自戒の念を半永久的な石碑として刻み込んだ例は全国的にも珍しく、国指定史跡として保護されている。

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