篠山城

ささやまじょう

篠山城

Photo: Baku13 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

篠山城|大坂城包囲網の要衝と、堅固すぎるがゆえに天守造営を禁じられた城

兵庫県丹波篠山市に位置する篠山城は、江戸幕府を開いた徳川家康が、大坂城に残る豊臣秀頼と西国大名たちを分断・牽制するために築城した極めて政治的かつ軍事的な城郭である。藤堂高虎の設計による鉄壁の防衛構造と、天守台が存在しながら天守が建造されなかった幕府の警戒心理、および江戸時代の木造建築技術の粋を集めた「大書院」の復元について記述する。

基本情報

名称
篠山城
別名
桐ヶ城(きりがじょう)
所在地
兵庫県丹波篠山市北新町
築城
1609年(慶長14年)
主な築城者
徳川家康(総奉行:池田輝政、縄張り:藤堂高虎)
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。広大な水堀と石垣が完存し、平成12年(2000年)に巨大な木造建築「大書院」が忠実に復元された。
豊臣家を孤立させる「天下普請」による急速な築城

01

豊臣家を孤立させる「天下普請」による急速な築城

慶長十四年(一六〇九年)、徳川家康は丹波国において新たな城郭の建設を命じた。この篠山の地は、京都と山陰地方、さらに播磨国を結ぶ交通の結節点であり、西国の大名たちが大坂城の豊臣家へ軍事的な援軍に向かう際のルートを完全に遮断できる絶好の戦略拠点であった。 家康はこの築城を「天下普請(てんかぶしん)」として、池田輝政を総奉行とし、加藤清正や福島正則など、かつて豊臣家に恩顧のあった西国・北国の大名十五ヶ国二十大名に命じて行わせた。 莫大な費用と労力を外様大名に負担させることで彼らの財力を削ぎ、同時に豊臣家への忠誠心を断ち切らせるという、家康の極めて周到な政治的意図が含まれた国家プロジェクトであった。 動員された人員の規模により、この堅牢な城郭はわずか六ヶ月から一年という驚異的な短期間で完成している。

藤堂高虎の実戦的縄張りと幕府による「天守造営の中止」

02

藤堂高虎の実戦的縄張りと幕府による「天守造営の中止」

篠山城の縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手として知られる藤堂高虎である。 高虎は内堀と外堀を方形に巡らせ、本丸の周囲には敵の直進を阻む「馬出(うまだし)」と呼ばれる強固な土塁と堀の区画を東、西、南の三箇所に配置した。 これは実戦における防衛力を極限まで高める設計であった。しかし、本丸の南東隅には立派な「天守台」の石垣が築かれたものの、江戸時代を通じてそこに天守が建てられることは一度もなかった。 その理由は、完成した篠山城の防衛構造があまりにも堅固であったため、家康が「万が一、この城が敵方に奪われた場合、幕府にとって大きな脅威になる」と危惧し、意図的に天守の造営を禁じたためとされている。 徳川政権が自ら築かせた城に対してすら抱いた、戦国末期の強烈な危機管理意識を物語る逸話である。

京都・二条城に匹敵する格式「大書院」の木造復元

03

京都・二条城に匹敵する格式「大書院」の木造復元

天守を持たない篠山城において、城郭の中心的なシンボルとして機能したのが、本丸に建造された「大書院(おおしょいん)」である。 これは藩主の公式な政務や儀式が行われる巨大な木造御殿であり、その規模と格式は京都の二条城二の丸御殿に匹敵すると評価されている。床面積は約七百四十平方メートルに及び、内部は豪華絢爛な障壁画で装飾されていた。江戸時代を生き抜いて昭和初期まで国宝(旧国宝)として現存していたが、昭和十九年(一九四四年)の失火によって無惨にも焼失してしまった。 しかし、残されていた詳細な図面や古写真を元に、平成十二年(二〇〇〇年)に総工費約十二億円をかけて当時の姿が完全に木造復元された。 大名権力の象徴としての巨大な書院造の空間を現代に蘇らせた、日本の城郭復元史における重要な建築物である。

SAME CATALOG

同じ図鑑のほかの記事