周山城

しゅうざんじょう

周山城

Photo: 京都新観光提言懇談会メンバー / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

周山城 | 明智光秀が京都北部の山中に築いた巨大な石垣山城。同時期では安土城などに次ぐ最新鋭の軍事要塞であった

京都市右京区京北に位置する周山城は、丹波を平定した明智光秀によって築城された総石垣造りの広大な山城である。完成から間もなく本能寺の変が起きたため、豊臣秀吉の命によって城郭が徹底的に破壊(破城)された。現在も山中に残る意図的な破壊の痕跡と、賊軍となった光秀を偲んで地元住民が造立した特殊な仏像の存在について記録する。

基本情報

名称
周山城
別名
特になし
所在地
京都府京都市右京区京北周山町
築城
1579年(天正7年)〜1581年(天正9年)頃
主な築城者
明智光秀
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。建物は存在せず、意図的に崩された石垣の遺構が山中に広範囲にわたって残存する。
若狭と京都を結ぶ街道を封鎖する巨大な石垣山城

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若狭と京都を結ぶ街道を封鎖する巨大な石垣山城

天正七年(一五七九年)、丹波国の平定を完了させた明智光秀は、京都と日本海側(若狭国)を結ぶ重要な物流・交通の動脈である「周山街道」を完全に掌握するため、標高約四百八十メートルの城山に巨大な山城の建設を開始した。それが周山城である。 当時の山城は土塁と空堀を主体とするものが一般的であったが、光秀は山の斜面を削り出し、尾根から谷筋に至るまで広範囲にわたって石垣を築き上げた。 西日本において、これほどの大規模な総石垣造りの山城は同時期では安土城などに次ぐ最新鋭の軍事要塞であり、織田政権下において近畿の北部防衛を担う光秀の極めて強大な権力と動員力を証明する遺構である。

豊臣秀吉の命令による徹底的な城郭破壊(破城)

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豊臣秀吉の命令による徹底的な城郭破壊(破城)

天正十年(一五八二年)に本能寺の変が起こり、光秀が山崎の戦いで敗死すると、周山城は羽柴(豊臣)秀吉の手に渡る。 秀吉は光秀の強大な軍事拠点が再び反乱分子に利用されることを防ぐため、また光秀の権威を物理的・象徴的に抹消するために、周山城の徹底的な解体と破壊(破城)を命じた。 現在、周山城の山中を歩くと、崩れ落ちた膨大な量の石垣の残骸を目の当たりにする。 これらは自然崩壊したものではなく、石垣の角(算木積み)の部分を人為的に外し、全体のバランスを崩して大規模に崩落させた「意図的な破壊工作」の明確な痕跡である。 完全な姿を保つことを許されなかった城郭の無惨な姿は、権力闘争の苛烈さを今に伝えている。

墨で真っ黒に塗られて隠し通された「光秀の木像」

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墨で真っ黒に塗られて隠し通された「光秀の木像」

朝敵、そして主君殺しの逆賊として歴史に名を残すことになった光秀であるが、福知山と同様に、この周山の地でも領民からの信望は極めて厚かった。城の麓にある慈眼寺(じげんじ)には、江戸時代を通じて領民たちが密かに祀り続けてきた「明智光秀の木像」が安置されている。豊臣政権下において光秀を称えることは重罪に問われる危険があったため、住民たちは光秀の像を墨で真っ黒に塗りつぶし、「これは黒衣の僧侶の像である」と偽って権力者の目から隠し通したのである。この「くろみつ大雄尊」と呼ばれる黒塗りの木像は、歴史の勝者が編纂した記録には残らない、敗者に対する地方領民の切実な思慕と善政の記憶を現代に証明する貴重な文化財となっている。

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