{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}高岡城

たかおかじょう

高岡城

Photo: RESPITE / Wikimedia Commons / CC0

高岡城|高山右近が設計した水の要塞と、城を失い商業で生き延びた城下町

富山県高岡市に位置する高岡城は、加賀百万石の第二代当主である前田利長が自らの隠居城として築城した巨大城郭である。キリシタン大名として知られる高山右近が縄張りを担当したとされる水堀の防衛構造と、一国一城令による完成直後の廃城という不遇、そして城を失いながらも高岡銅器などの産業によって発展を遂げた都市の歴史的変遷を解説する。

基本情報

名称
高岡城
別名
関野城
所在地
富山県高岡市古城
築城
1609年(慶長14年)
主な築城者
前田利長
現在の城跡・建造物の状態
高岡古城公園として整備。建造物は現存しないが、本丸を囲む全体の約3分の1を占める広大な水堀と土塁が築城当時の姿のまま完存する。
前田利長の隠居城とキリシタン大名・高山右近による縄張り

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前田利長の隠居城とキリシタン大名・高山右近による縄張り

慶長十年(1605年)、加賀藩第二代藩主の前田利長は、異母弟の利常に家督を譲って富山城へと隠居したが、火災によって城が焼失したため、関野(現在の高岡)の地に新たな隠居城の建設を開始した。 慶長十四年(1609年)に入城して「高岡」と命名されたこの城郭の縄張り(設計)を担当したのは、利長の客将として前田家に庇護されていたキリシタン大名・高山右近であると伝えられている。 高山右近は西欧の築城技術の知識も持っていたとされ、高岡城の設計においては、平野部の軟弱な地盤を考慮して大規模な石垣を用いず、総面積の約三分の一を水堀が占めるという極端に水防能力の高い構造を採用した。 本丸を中心にして二の丸、明丸、鍛冶丸などが複雑な水堀で隔離されており、敵が直線的に侵入することを物理的に不可能にする高度な土木設計が施されていた。

一国一城令による完成直後の廃城と前田家の政治的配慮

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一国一城令による完成直後の廃城と前田家の政治的配慮

前田利長は高岡城に入城してからわずか五年後の慶長十九年(1614年)に病没する。 その翌年である元和元年(1615年)、江戸幕府は諸大名の軍事力を削ぐための「一国一城令」を発布した。 前田家が治める加賀・能登・越中の三国においては、加賀の金沢城と能登の小松城が存続を認められたが、隠居城であった高岡城は破却の対象とされた。 幕府に対して謀反の意志がないことを明確に示すため、前田家は完成からわずか数年しか経過していない高岡城の櫓などの建造物を速やかに解体・撤去したのである。 隠居した大大名が余生を過ごすための巨大要塞は、一度も実戦を経験することなく、幕府の徹底した軍縮政策の前にあっけなくその軍事的役割を終えることとなった。

城を失った町を救った前田利常の産業振興と高岡銅器の繁栄

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城を失った町を救った前田利常の産業振興と高岡銅器の繁栄

高岡城が廃城となったことで、武士たちは金沢へと引き上げ、城下町は急速に衰退の危機に直面した。 しかし、第三代藩主の前田利常は、兄・利長が築き上げた高岡の町を見捨てることはなかった。利常は高岡の町民に対して地子銭(土地税)を免除し、他国からの商人の流入を奨励するという強力な経済支援策を打ち出した。 特に力を入れたのが、城下に呼び寄せていた鋳物師(いもじ)たちへの保護である。 彼らが製造する鍋や釜、農具などの鉄器・銅器産業を藩の手厚い保護のもとで育成し、これが後に日本の銅器生産の九割を占める「高岡銅器」の基盤となった。 城郭という軍事的な核を失いながらも、為政者の的確な産業振興政策によって、高岡は北陸屈指の商工業都市として力強く蘇り、現在も残る豊かな水堀の景観は市民の憩いの場(高岡古城公園)として引き継がれている。

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