高遠城

たかとおじょう

高遠城

Photo: photo: Qurren ( talk ) Taken with Canon PowerShot G9 X / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

高遠城|織田軍の猛攻に散った武田の将と、保科正之を育んだ桜の城郭

長野県伊那市に位置する高遠城は、武田信玄が伊那地方を支配するための拠点として秋山虎繁や山本勘助に改修させた山城である。武田氏の滅亡を決定づけた織田軍との苛烈な攻防戦の舞台となり、江戸時代には名君として知られる保科正之が幼少期を過ごした。武田軍最後の抵抗の歴史的意義と、廃城後に植樹された固有種の桜が彩る近代の城跡保存の実態を記録する。

基本情報

名称
高遠城
別名
兜山城
所在地
長野県伊那市高遠町東高遠
築城
戦国時代(高遠頼継)、1547年(天文16年)以降に武田信玄が改修
主な築城者
高遠頼継、武田信玄、保科氏
現在の城跡・建造物の状態
高遠城址公園として整備。国の史跡に指定されており、大規模な空堀や土塁が現存。春には約1500本のタカトオコヒガンザクラが咲き誇る。
武田氏滅亡の最終防衛線と仁科盛信の壮絶な玉砕

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武田氏滅亡の最終防衛線と仁科盛信の壮絶な玉砕

天正十年(1582年)、織田信長による武田氏討伐(甲州征伐)の軍勢が怒涛の勢いで信濃国へ侵攻した。 武田家麾下の城主たちが次々と戦わずして逃亡・降伏する中、高遠城の城主であった仁科盛信(武田信玄の五男)だけは、わずか三千の兵とともに城に立て籠もり、織田軍の総大将・織田信忠が率いる約五万の圧倒的大軍を迎え撃った。 信忠からの降伏勧告の使者の耳を削ぎ落として拒絶した盛信は、城の周囲の急峻な谷と深い空堀を利用して激しい防衛戦を展開する。 城内は血で血を洗う凄惨な白兵戦となり、武田軍の将兵は女子供に至るまで次々と討死するか自刃に追い込まれた。 盛信自身も自らの腹を十文字に切り裂き、腸を壁に投げつけて壮絶な最期を遂げたと伝えられている。 高遠城の陥落により武田氏の組織的な軍事抵抗は完全に崩壊し、数日後に当主の武田勝頼が天目山で自刃して名門武田家は滅亡することとなる。

徳川家光の異母弟・保科正之を匿い育てた政治的拠点

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徳川家光の異母弟・保科正之を匿い育てた政治的拠点

江戸時代に入ると、高遠城は保科氏の居城となった。 第二代将軍・徳川秀忠は正室のお江与の方(崇源院)の嫉妬を極度に恐れており、密かに侍女との間に生まれた男児(後の保科正之)の存在を隠し通す必要があった。 この秘密裏の男児を預かり、養子として手厚く育て上げたのが高遠藩主の保科正光である。 正之はこの高遠城において武士としての高い教養と厳格な倫理観を身につけて成長した。 後に第三代将軍・徳川家光が正之を自分の異母弟であると正式に認め、正之は会津藩二十三万石の大名へと大出世を遂げ、四代将軍家綱を補佐して幕政を主導する名君として歴史に名を残す。 高遠城は、徳川幕府の安定期を支えた最高首脳を、暗殺や政治的陰謀の危険から隔離して密かに育んだ重要な政治的シェルターとしての役割を果たしたのである。

旧士族による桜の植樹と固有種タカトオコヒガンザクラPhoto: MaedaAkihiko / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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旧士族による桜の植樹と固有種タカトオコヒガンザクラ

明治維新による廃城令の後、高遠城の建造物はすべて解体・売却され、城跡は荒れ果ててしまった。 この事態を憂いた高遠藩の旧藩士たちは、明治八年(一八七五年)から城跡の公園化事業に着手し、馬場跡などに自生していた桜を城内の随所に移植した。 この桜は「タカトオコヒガンザクラ(高遠小彼岸桜)」と呼ばれる高遠地方の固有種であり、ソメイヨシノよりも小ぶりで赤みの強い可憐な花を咲かせる特徴がある。 旧藩士たちが武士の魂と城郭の保存を託して植え続けた桜は、約百五十年の時を経て千五百本以上の見事な桜林へと成長し、「天下第一の桜」と称される日本屈指の景勝地を形成するに至った。 血塗られた戦国期の歴史を持つ軍事要塞は、敗者の美学と固有の植物学が生み出した文化財として現代に受け継がれている。

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