{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}鳥取城

とっとりじょう

鳥取城

Photo: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY 2.5

鳥取城|「鳥取の渇え殺し」として恐れられる日本城郭史最悪の籠城戦。豊臣秀吉は力攻めをせず、事前に「経済戦」を仕掛けることで城を地獄へと変えた。

鳥取県鳥取市に所在する鳥取城は、標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂部に築かれた中世山城と、山麓に展開する近世城郭が複合した城郭である。戦国時代における羽柴秀吉の凄惨な兵糧攻め(鳥取の渇え殺し)の軍事的舞台として知られる。江戸時代に入ると池田氏三十二万石の居城として大規模な拡張が行われ、石垣の崩落を防ぐための特異な土木建造物「巻石垣」が築かれた。長きにわたる城郭の変遷と、各時代における防衛構造および歴史的事件の実態について記述する。

基本情報

名称
鳥取城
読み
とっとりじょう
別名
久松城
所在地
鳥取県鳥取市東町
築城時期
16世紀に山名氏が築城
築城者
山名氏
現在の城郭
久松山の山麓に石垣・天球丸などが残る城跡
文化財・指定
国指定史跡
羽柴秀吉による異常な包囲戦「鳥取の渇え殺し」

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羽柴秀吉による異常な包囲戦「鳥取の渇え殺し」

天正九年(1581年)、織田信長の命を受けて中国地方へ侵攻した羽柴秀吉は、毛利方の最前線拠点であった鳥取城に対して極めて徹底した包囲戦を展開した。 「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」と呼称される兵糧攻めである。 秀吉は力攻めによる自軍の損害を避けるため、事前に若狭などの商人を用いて因幡地域の米を平時の数倍という高値で買い占めさせ、城内の食糧備蓄を物理的に枯渇させた。 その上で、若桜や雁金山といった周辺の支城網と補給路を完全に遮断した。鳥取城には近隣の農民らも多数避難しており、数千人が籠城していたが、食糧は数週間で底を突き、城内は餓死者が続出する惨状となった。 生存者が餓死者の人肉を食らうほどの極限状態に陥ったことが記録されており、秀吉の兵糧攻めの苛烈さと高い戦略的実効性を歴史に刻む事象となっている。

吉川経家の切腹と城兵の助命による開城Photo: Unknown author Unknown author / Wikimedia Commons / Public domain

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吉川経家の切腹と城兵の助命による開城

この過酷な籠城戦において鳥取城の守将を務めていたのは、毛利氏から派遣された吉川経家(きっかわ つねいえ)である。 経家が鳥取城に入城した時点で、すでに秀吉の買い占め工作が完了しており、城内の兵糧は極端に不足していた。 経家は久松山の険阻な地形を活かして数ヶ月間持ち堪えたものの、城内の凄惨な状況を目の当たりにし、これ以上の抗戦は不可能と判断した。 天正九年十月、経家は自らの命と引き換えに城兵および避難民すべての助命を秀吉に申し入れた。 秀吉は経家の武将としての責任感と防衛の采配を高く評価し、切腹を免除しようとしたとされるが、経家は城主としての責任を負う姿勢を貫き、十月二十四日に自刃した。 経家が切腹の直前に子供たちへ宛てて書いた遺言状が現存しており、死を目前にした武将の死生観を伝える第一級の歴史的史料として保管されている。

池田氏の統治と崩落を防ぐ特異な「巻石垣」Photo: by Reggaeman / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

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池田氏の統治と崩落を防ぐ特異な「巻石垣」

江戸時代に入ると、鳥取城は池田氏(池田光政、のち池田光仲)の居城となり、鳥取藩三十二万石の中心拠点として大規模な近世城郭へと改修された。 山頂の山城部分に加え、山麓に広大な二の丸や三の丸が整備され、強固な石垣が積まれた。 この鳥取城における建築学上の最大の特徴が、江戸時代後期(文化年間)に二の丸の北側にある「天球丸」に築かれた「巻石垣(まきいしがき)」である。 これは背後の石垣の孕み(膨らみ)や崩落を防ぐための補強構造であり、亀の甲羅のように丸みを帯びた球面状に石が積まれている。 地盤の緩みに対して、物理的な圧力を分散させる土木工学的な意図のもとに設計されたものであり、全国の城郭でも鳥取城にしか存在しない極めて特異な防衛・補強遺構である。 現在は久松公園として整備され、歴史的景観の復元作業が継続的に進行している。

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