山形城

やまがたじょう

山形城

Photo: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

山形城|最上義光が拡張した広大な平城と、鳥居氏による石垣整備の痕跡

山形県山形市に所在する山形城(霞ヶ城)は、出羽国を支配した最上氏の本拠地として戦国時代から江戸時代にかけて巨大な規模へと拡張された平城である。五十七万石の大大名となった最上義光による大規模な城郭整備の全貌と、最上氏改易後に入城した鳥居氏による石垣の構築、そして幕末の動乱における歴史的役割について記述する。

基本情報

名称
山形城
別名
霞ヶ城(かすみがじょう)、吉字城
所在地
山形県山形市霞城町
築城
1356年(延文元年)に斯波兼頼が築城、1590年代に最上義光が大改修
主な築城者
斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政
現在の城跡・建造物の状態
霞城公園として整備。二の丸東大手門、本丸一文字門などが木造復元され、本丸堀の石垣が現存・復元されている(国指定史跡)。
最上義光による大拡張と日本第五位の広さを誇る「輪郭式平城」Photo: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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最上義光による大拡張と日本第五位の広さを誇る「輪郭式平城」

室町時代に斯波兼頼が築いた居館を基礎とする山形城であるが、城の規模を爆発的に拡張させたのは、戦国大名・最上義光(もがみ よしあき)である。 最上義光は関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)において直江兼続率いる上杉軍の猛攻を長谷堂城などで退け、その功績によって五十七万石という東北屈指の大大大名へと飛躍した。 最上義光はこの膨大な石高にふさわしい城郭とするため、本丸を中心に二の丸、三の丸を同心円状に配置する「輪郭式平城(りんかくしきひらじろ)」の縄張りを採用し、城郭の大拡張工事を行った。 完成した山形城の総面積は約二百三十五ヘクタールに及び、これは江戸城、大坂城、名古屋城、金沢城に次いで日本で五番目の広さを誇る途方もない規模であった。 広大な平野部の水系を利用した堀と広範な土塁によって構成された山形城は、北日本の覇者としての最上氏の絶大な権力を物理的に証明する建造物であった。

最上氏改易と鳥居忠政による本丸石垣の築造Photo: Raita Futo from Tokyo, Japan / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

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最上氏改易と鳥居忠政による本丸石垣の築造

義光の死後、最上家では深刻な内部対立(最上騒動)が発生し、元和八年(1622年)に江戸幕府から領地没収(改易)の処分を受ける。 五十七万石の巨大な領地は分割され、山形城には徳川家康の重臣である鳥居元忠の息子・鳥居忠政が二十二万石で入城した。 最上氏の時代の山形城は土塁を主体としていたが、忠政は幕府からの命を受け、本丸の周囲に本格的な石垣を築造する改修工事に着手した。 現在、霞城公園の本丸跡に残る野面積みや打込接による重厚な石垣は、この鳥居氏の時代に築かれたものである。 しかし、城の面積に対して二十二万石という財政規模はあまりにも小さく、忠政以降も城主が目まぐるしく交替(奥平氏、松平氏、水野氏など)したため、江戸時代中期以降の山形藩は広大すぎる城郭の維持管理に極度に苦しみ、三の丸の堀を農地に転用するなど城郭の縮小を余儀なくされていった。

幕末の奥羽越列藩同盟と霞城公園としての復興Photo: くろふね / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

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幕末の奥羽越列藩同盟と霞城公園としての復興

幕末の慶応四年(1868年)、戊辰戦争において山形藩(当時の藩主は水野氏)は、東北地方の諸藩と協調して「奥羽越列藩同盟」に参加した。 山形城は同盟軍の重要な軍事・政治拠点となり、城内では同盟の戦略を協議するための軍議が度々開催された。 しかし、新政府軍の圧倒的な軍事力を前に周辺の諸藩が次々と降伏する中、山形藩も戦火が市街地に及ぶことを避けるために無血開城を選択し、城下への攻撃は免れた。明治維新後に城郭内の建物はすべて売却・解体され、陸軍の歩兵第三十二連隊の駐屯地となった。 戦後、敷地は「霞城公園(かじょうこうえん)」として一般に開放され、平成三年(1991年)に二の丸東大手門が、平成26年には本丸一文字門が古写真や発掘調査のデータを元に木造で忠実に復元されるなど、最上義光が築いた巨大城郭の景観を取り戻す取り組みが現在も進行している。

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