山中城

やまなかじょう

山中城

Photo: Mocchy at Japanese Wikipedia / Wikimedia Commons / Public domain

山中城|石を全く使用せず、関東ローム層の土壌の特性を最大限に活かした「障子堀」などの特殊な防衛設備を持つ

静岡県三島市に位置する山中城は、相模国を本拠とする後北条氏が、西からの脅威に対する国境防衛拠点として箱根山の中腹に築いた城郭である。石を全く使用せず、関東ローム層の土壌の特性を最大限に活かした「障子堀」などの特殊な防衛設備を持つ。豊臣秀吉の小田原征伐において、後北条氏の目論見を大きく外れて短時間で陥落することとなった歴史的背景と城郭構造の相関について記述する。

基本情報

名称
山中城
別名
特になし
所在地
静岡県三島市山中新田
築城
1560年代(永禄年間)
主な築城者
北条氏康
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。山中城跡公園として整備されており、発掘調査に基づき復元された障子堀や畝堀の特殊な形状が明瞭に確認できる。
石を使わず土を加工する後北条氏特有の築城術

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石を使わず土を加工する後北条氏特有の築城術

山中城の最大の建築的特徴は、西国の城郭で一般化していた「石垣」を一切使用せず、土塁と空堀のみで全体の防衛ラインを構築している点にある。 これは石材の調達が難しい箱根の地質的制約だけでなく、粘土質で滑りやすい関東ローム層の土壌特性を利用した後北条氏独自の築城理論に基づくものである。 山の斜面を削り出して急峻な土手(切岸)を形成し、その表面を叩き固めることで、敵兵が這い上がることの困難な滑る城壁を作り上げた。 西国の武将たちが巨大な石垣による視覚的威圧効果を重視したのに対し、後北条氏は土を精巧に彫刻するような土木技術によって、実戦における物理的な防御力を極限まで追求したのである。

敵の動きを完全に封じ込める「障子堀」の構造

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敵の動きを完全に封じ込める「障子堀」の構造

山中城の防衛力を象徴する遺構が、堀の底を障子の桟(さん)やワッフルのような格子状に掘り残した「障子堀(しょうじぼり)」および「畝堀(うねぼり)」である。 一般的な空堀であれば、堀の底に降りた敵兵は左右に移動しながら攻撃の糸口を探ることができるが、障子堀に転落した敵兵は、泥状になった狭い区画(堀底)の中に隔離され、横への移動を完全に封じられてしまう。 身動きが取れなくなった敵兵に対し、土塁の上から弓矢や鉄砲によって一斉射撃を加えるという極めて殺傷能力の高い迎撃システムである。 現在、復元・整備された山中城跡では、緑の芝生に覆われた美しい幾何学模様としてこの障子堀を観察できるが、築城当時は赤土が剥き出しの滑りやすい泥の罠として機能していた。

豊臣軍七万の猛攻による「半日」での凄絶な落城

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豊臣軍七万の猛攻による「半日」での凄絶な落城

天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、西からの侵攻ルートの最前線となる山中城には、松田康長をはじめとする約四千の後北条軍が配置された。 後北条氏の軍事計画では、この堅牢な山中城で豊臣軍の進軍を長期間足止めする算段であった。 しかし同年三月二十九日、豊臣秀次を総大将とする約七万の豊臣軍が山中城への総攻撃を開始する。 最新鋭の鉄砲を大量に装備し、堀を埋めるための土俵を背負った豊臣軍の圧倒的な物量戦の前に、障子堀の迎撃システムも許容量を超えて無力化された。 松田康長らは凄絶な白兵戦を展開して玉砕し、難攻不落と目された山中城は、開戦からわずか半日という短時間で陥落したのである。 築城技術の粋を集めた土の城は、天下統一を進める豊臣政権の桁違いの動員力と戦術の前に、その限界を露呈する結果となった。

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