大和郡山城

やまとこおりやまじょう

大和郡山城

大和郡山城|豊臣秀長による百万石の首府構築と転用石の石垣遺構

奈良県大和郡山市に所在する大和郡山城は、筒井順慶による大和統一の拠点として築かれ、豊臣秀長によって西国を統轄する巨大城郭へと拡張された平山城である。築城にあたり石材不足を補うために用いられた転用石の遺構と、江戸時代中期に柳澤氏が入封して以降、下級武士の副業として定着した金魚養殖の歴史的背景について記述する。

基本情報

名称
大和郡山城
読み
やまとこおりやまじょう
別名
郡山城
所在地
奈良県大和郡山市城内町
築城時期
天正8年(1580)、筒井順慶が大規模改修
築城者
筒井順慶
現在の城郭
石垣・堀と復元櫓が残り、天守台には転用石が見られる
文化財・指定
国指定史跡・続日本100名城
筒井順慶の大和統一と豊臣秀長による城郭拡張

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筒井順慶の大和統一と豊臣秀長による城郭拡張

大和国は長らく興福寺などの宗教勢力による支配が続いていたが、戦国時代末期に織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、天正八年(一五八〇年)に郡山城の本格的な築城を開始した。 順慶の死後、天正十三年(一五八五年)に豊臣秀吉の異父弟である豊臣秀長が、大和・和泉・紀伊の三国あわせて百余万石という強大な権力を与えられて入城する。 秀長は西国の諸大名を牽制・統括するための最重要拠点として、筒井時代の城郭をさらに大規模に拡張した。百万石の首府にふさわしい城郭とするため、紀の川流域などから膨大な人員を動員して天守を造営し、広大な堀と城下町を整備したのである。 秀長の堅実な内政手腕により、大和郡山は豊臣政権下における事実上の副都心として機能し、政治的および経済的な中心地としての地位を確立した。

石材不足を補う「転用石」と天守台の逆さ地蔵Photo: MAKIKO OMOKAWA / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

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石材不足を補う「転用石」と天守台の逆さ地蔵

秀長による郡山城の大拡張工事は、極めて短期間で遂行する必要があった。 しかし、大和郡山は奈良盆地の平野部に位置しており、城郭建築に適した大型の石材(花崗岩など)を周辺の自然環境から大量に調達することが地質学的に困難であった。 そのため、秀長は「石地蔵、墓石、寺院の礎石、五輪塔」などを周辺地域から強制的に徴発し、そのまま石垣の建材として使用するという手段を採用した。 これが「転用石(てんようせき)」である。 現在も郡山城の天守台の裏側に回ると、石垣の隙間に逆さまの状態で組み込まれた「逆さ地蔵」を明確に確認することができる。 仏教の聖地である奈良において、宗教的な石造物を築城資材として足下に踏み敷く行為は、旧来の宗教勢力に対する権力の優位性を示すと同時に、軍事施設の完成を最優先とする戦国大名の徹底した合理主義を象徴する遺構となっている。

柳澤氏の入国と武士の副業による金魚養殖の定着

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柳澤氏の入国と武士の副業による金魚養殖の定着

江戸時代に入ると、郡山城には水野氏や松平氏などが目まぐるしく入封したが、享保九年(一七二四年)に五代将軍・徳川綱吉の側用人として権力を握った柳澤吉保の長男、柳澤吉里(やなぎさわ よしさと)が十五万石で入城し、以降は幕末まで柳澤氏の統治が続いた。 大和郡山の近代産業史を語る上で特筆すべき事象が「金魚の養殖」である。柳澤氏が甲府から郡山へ移封された際、家臣が金魚を持ち込んだことが端緒とされている。 幕末から明治維新にかけて、禄(給与)を失い困窮した下級武士や旧藩士たちが、生活の糧を得るための副業として金魚の養殖を本格的に開始した。 城跡周辺の遊休地や堀の水を利用したこの養殖事業は、奈良盆地の温暖な気候と豊かな水質に適合して生産量を拡大し、大和郡山を現在に至る日本有数の金魚生産地へと変貌させる産業的基盤を形成した。

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