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優柔不断が引き起こした「応仁の乱」
足利義政(あしかがよしまさ)は、とにかく政治が嫌いでした。子供がいなかったため弟(義視)を次の将軍に指名した直後、妻(日野富子)に男の子(義尚)が産まれてしまいます。「やっぱり自分の子を将軍にしたい」という妻と弟の権力争いを義政がまとめきれず放置したため、全国の武将を巻き込んだ11年にも及ぶ大内乱「応仁の乱」が勃発してしまいました。


あしかがよしまさ
足利義政
室町幕府8代将軍・足利義政。応仁の乱によって京都が焼け野原となり、幕府の権威が失墜する一方、彼が愛した芸術や文化は、銀閣寺に代表される「東山文化」として後世に受け継がれました。 政治では決断力を欠き、将軍としての評価は決して高くありません。しかし、わび・さびの美意識や書院造、茶の湯、庭園など、現代の「日本らしさ」につながる文化が花開いたのも義政の時代です。 政治では失敗しながら、文化では日本の歴史を変えた将軍。 足利義政は、なぜ政治よりも美の世界に心を奪われたのでしょうか。
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足利義政(あしかがよしまさ)は、とにかく政治が嫌いでした。子供がいなかったため弟(義視)を次の将軍に指名した直後、妻(日野富子)に男の子(義尚)が産まれてしまいます。「やっぱり自分の子を将軍にしたい」という妻と弟の権力争いを義政がまとめきれず放置したため、全国の武将を巻き込んだ11年にも及ぶ大内乱「応仁の乱」が勃発してしまいました。

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応仁の乱によって、首都・京都の町は火の海になり、焼野原と化しました。しかし義政は、この大パニックの最中に「もう将軍なんか辞める!」と宣言し、戦火を逃れて東山に自分の趣味の別荘(のちの銀閣寺)を建てることに熱中します。民衆が飢えと戦火で苦しんでいるのに、彼は庭石集めや茶道具の鑑賞に没頭し続けたのです。

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将軍としては擁護のしようがないダメ人間ですが、彼が造らせた銀閣寺の書院造(畳敷き、障子、床の間)や、保護した茶道・華道・能などの芸術家たちの活動は、「東山文化」として結実しました。現代の私たちが「日本らしい」と感じる和風デザインのほとんどは、義政の現実逃避から生まれたものなのです。

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