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貧しすぎて「博打場」を経営?
岩倉具視は、天皇に仕える「公家(貴族)」ですが、彼の家は非常に身分が低く、極貧の生活を送っていました。 若い頃の彼は容姿もパッとせず、政治にも興味を示さない遊び人でした。あまりにお金がなかったため、自分の屋敷の庭を町の博徒(ギャンブラー)たちに貸し出し、場所代(テラ銭)を取って生活費を稼いでいたという信じられないエピソードが残っています。貴族の屋敷が、なんと違法カジノの会場になっていたのです。


いわくらともみ
岩倉具視
幕末から明治維新にかけて、日本の政治を大きく動かした公家・岩倉具視。明治政府の中心人物として知られていますが、その出発点は朝廷内で決して高い地位にあったわけではありませんでした。 岩倉は孝明天皇の側近として活動する一方、朝廷と幕府の協調を目指す「公武合体」を推進。しかし、その政治活動が尊王攘夷派の反発を招き、京都の岩倉村で約5年間の蟄居生活を送ることになります。 ところが、時代の流れが倒幕へと傾くと、岩倉は政治の表舞台に復帰。王政復古の政変に深く関わり、明治新政府の成立を支えました。さらに維新後は、欧米12か国を巡る「岩倉使節団」を率い、西洋の進んだ制度や産業を目の当たりにします。
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岩倉具視は、天皇に仕える「公家(貴族)」ですが、彼の家は非常に身分が低く、極貧の生活を送っていました。 若い頃の彼は容姿もパッとせず、政治にも興味を示さない遊び人でした。あまりにお金がなかったため、自分の屋敷の庭を町の博徒(ギャンブラー)たちに貸し出し、場所代(テラ銭)を取って生活費を稼いでいたという信じられないエピソードが残っています。貴族の屋敷が、なんと違法カジノの会場になっていたのです。

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その後、持ち前の頭の回転の速さで政治の世界にのし上がった岩倉ですが、幕府との協調路線(公武合体)をとったため尊王攘夷派から命を狙われ、長期間の幽閉生活を送ります。 彼に関する最大のミステリーが、幕府寄りだった「孝明天皇の崩御」への関与です。天皇は天然痘で急死したとされていますが、タイミングがあまりにも倒幕派(岩倉たち)に都合が良かったため、古くから「岩倉具視が毒殺したのではないか」という黒い噂(推測)が囁かれ続けています。真実は闇の中ですが、彼ならやりかねないと思わせる凄みが彼にはありました。

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明治政府のトップに立った後も、彼を憎む不平士族からの暗殺の危機は続きました。 1874年、夜の赤坂(喰違見附)を馬車で移動中に、武装した士族たちに襲撃されます。馬車は破壊され、岩倉も眉や腰に傷を負いましたが、暗闇の中で崖下(四谷のお堀の土手)へ転げ落ちて身を潜めました。刺客たちが「暗くて見つからない、逃げたか!」と去っていくまで、雪の降る冷たい堀の泥の中でじっと息を潜めて生き延びたのです。華麗な貴族とは程遠い、雑草のような生命力が彼の最大の武器でした。

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