01
世界最強の帝国への「徹底抗戦」
18歳という若さで鎌倉幕府の執権(事実上のトップ)となった北条時宗(ほうじょうときむね)を待ち受けていたのは、ユーラシア大陸を支配するモンゴル帝国(元)からの服属要求でした。時宗は元の使者を斬り捨てるなど、一切の妥協を許さない強硬姿勢を貫き、「文永の役(1274年)」「弘安の役(1281年)」という二度の巨大な軍事侵攻(元寇)に対し、御家人たちを総動員して日本を徹底的に防衛し切りました。


ほうじょうときむね
北条時宗
世界を飲み込んだモンゴル帝国の巨大な脅威に対し、断固たる決意ではねのけた鎌倉幕府第8代執権。国を守る重圧の中で禅宗に深く帰依し、鎌倉の精神文化の礎を築いた。
01
18歳という若さで鎌倉幕府の執権(事実上のトップ)となった北条時宗(ほうじょうときむね)を待ち受けていたのは、ユーラシア大陸を支配するモンゴル帝国(元)からの服属要求でした。時宗は元の使者を斬り捨てるなど、一切の妥協を許さない強硬姿勢を貫き、「文永の役(1274年)」「弘安の役(1281年)」という二度の巨大な軍事侵攻(元寇)に対し、御家人たちを総動員して日本を徹底的に防衛し切りました。

02
国が滅ぶかもしれないという極限のプレッシャーの中、時宗が心のよりどころとしたのが「禅」の教えでした。彼は中国(南宋)から無学祖元(むがくそげん)などの高僧を招き、自らも厳しい座禅の修行に打ち込みました。「迷いを断ち切り、生と死を乗り越える」という禅の精神は、強大な敵に立ち向かう武士たちの心の支えとなり、彼が建立した「円覚寺」は、鎌倉における禅文化の中心地となりました。

03
二度の元寇を退けた時宗は、1284年に34歳で病死します。さらに意外なのは、勝利しても御家人たちに十分な恩賞を配れる新しい土地がほとんどなかったことです。国を守った戦争が、守った側の幕府の財政と御家人の不満を残した。元寇は「勝ったから終わり」ではなく、勝利の後から鎌倉幕府の難しさが始まる事件でもありました。

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