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近代国家の設計図「大日本帝国憲法」
伊藤博文は、近代国家を一人で作ったのではなく、対立を制度へ変えた。伊藤博文の最大の仕事は、大日本帝国憲法を一から設計したことです。では、なぜ伊藤自身がヨーロッパへ学びに行ったのか。幕末に攘夷を唱えた若者が、砲撃を受けた西洋を今度は国家設計の教科書として読み直したからです。敵として見た世界を、制度を作るための知識へ反転させた経験が、近代国家の骨格になりました。


いとうひろぶみ
伊藤博文
日本初の内閣総理大臣・伊藤博文。初代・第5代・第7代・第10代と4度にわたって首相を務め、大日本帝国憲法の制定に中心的な役割を果たした、明治日本を代表する政治家です。 しかし、その出発点は意外にも、長州藩の下級武士の家に生まれた青年でした。吉田松陰の松下村塾で学び、若い頃は外国人排斥を唱える尊王攘夷運動に参加。ところが、イギリスへの密航留学を経て西洋文明の力を知ると、開国と近代化を推し進める立場へと転じていきます。 明治維新後は政府の中心人物として頭角を現し、初代首相に就任。憲法制定や議会制度の整備に尽力する一方、朝鮮半島への日本の影響力拡大にも深く関わりました。そして1909年、中国・ハルビン駅で安重根に狙撃され、68歳で生涯を閉じます。
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伊藤博文は、近代国家を一人で作ったのではなく、対立を制度へ変えた。伊藤博文の最大の仕事は、大日本帝国憲法を一から設計したことです。では、なぜ伊藤自身がヨーロッパへ学びに行ったのか。幕末に攘夷を唱えた若者が、砲撃を受けた西洋を今度は国家設計の教科書として読み直したからです。敵として見た世界を、制度を作るための知識へ反転させた経験が、近代国家の骨格になりました。

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伊藤博文は、近代国家を一人で作ったのではなく、対立を制度へ変えた。1885年に内閣制度を創設し、44歳で初代総理となりました。伊藤の強みは、反対派を力でねじ伏せず、酒宴や雑談の場で意見をほどく調整力でした。近代国家の最初の総理に必要だったのは、最初から完成した制度を持つことではなく、制度の中に人を座らせる技術だったのです。

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伊藤博文は、近代国家を一人で作ったのではなく、対立を制度へ変えた。晩年は、初代韓国統監として朝鮮半島の統治問題やロシアとの外交交渉に奔走しました。1909年、ロシアの要人と会談するために満州のハルビン駅に降り立った際、民族運動家の安重根によって暗殺されます。凶弾に倒れた彼が、撃った者が韓国人だと聞かされた際に「馬鹿な奴だ(自分が死ねば韓国の併合が早まるだけなのに)」と呟いたという逸話は、当時の複雑な東アジアの国際関係と彼の外交的視座を物語っています。

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